【新楽団員を訪ねて】小栗まち絵さん(ヴァイオリン)、インタビュー掲載!

音 楽

2015 11 06

【新楽団員を訪ねて】小栗まち絵さん(ヴァイオリン)、インタビュー掲載!

シリーズ「新楽団員を訪ねて」は、水戸芸術館専属楽団・水戸室内管弦楽団に、メンバーとして新しく加わった方にお話を伺い、演奏家ひとりひとりのかけがえのない物語をお伝えするコーナーです。

今回は、大阪ご出身のヴァイオリニスト、小栗まち絵さん。学生時代にうけた齋藤秀雄氏の教え、音楽家としての原点、カルテットでの国際的な演奏活動など、さまざまなお話を伺いました。水戸室内管弦楽団第94回定期演奏会のまえに、ぜひお読みください!


―小栗さんは以前から、水戸室内管弦楽団(MCO)の定期演奏会に数多くご参加くださっていますが、その魅力をどのように感じていらっしゃいますか?

一人一人がまず素晴らしいですよね。そしてMCOは、大きなカルテットのようだと思います。皆さん室内楽のご経験があって、自発的に音楽をしていて、みんなの音をきいて心を合わせる経験がある方ばかり。だからカルテットの延長のようで、実のある体験になって嬉しいです。もちろん小澤征爾先生の指揮はいつも感動します。音楽の魂の栄養をいただく気がして。また先輩方をはじめ、私が教えたことのあるような若い方まで、幅広い年齢の方が集まっているのも魅力の一つです。安芸晶子さんや渡辺實和子さん、亡くなられた潮田益子先生とか、本当に長い間現役で弾いていらっしゃるのをみて、私もそんなふうになれたらいいなと思います。

それに加えて、水戸芸術館の方たちのオーケストラへの熱意と愛情が素晴らしいと思います。いつも実家に帰ってきた感じで食べに行くお店では、団員さんの名前を知っていて応援してくださって。町ぐるみで歓迎してくださって、本当に恵まれたオケだと思います。いい音楽をみんなに聴いてもらえるよう一緒に育てていく、という町の方たちの熱意。それが国内外から集まるメンバーを水戸に惹きつけていると思います。

 

―小栗さんはもともと、どのようなきっかけでヴァイオリンを始められたのですか?

銀行に勤めていた父が音楽好きで、マンドリンを弾いたり、歌うことがとても好きな人だったんです。私は、4歳のお誕生日にヴァイオリンをプレゼントされたのがきっかけで始めました。スズキメソードでね。生まれは大阪ですが、その後東京に引っ越して、小学1年生のとき桐朋学園の「子供のための音楽教室」に入って、ソルフェージュの勉強をしたりオーケストラの合奏をするようになりました。小澤先生がまだ学生で、桐朋学園のオーケストラにいらしていた頃です。新宿からのバスの中、お菓子を食べながら教室に行って、お友達とアンサンブルをするのは、とても楽しいと感じながら育ってきました。早くから恵まれた教育を受けられたと思います。父は当時、会社の仲間とやっていたカルテットでヴィオラも弾いていたんです。チェロの人たちがうちに遊びに来た時には、父に「まち絵、ファースト弾け」とか言われてね(笑)。ヴァイオリンを本当にやりたいと思ったのは小学校高学年の頃。J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタの1番を弾いた時、一人で練習して楽譜からいろいろと発見するのが、子ども心にとっても面白いと思ったんです。

 

―小栗さんがこれこそご自身の音楽活動の原点だと思われることについて、お聞かせいただけませんか?

私が本当に音楽を学んだと思うのはカルテットで、ですね。小学校3年生で、故郷の大阪に戻る時、齋藤秀雄先生が「相愛にも音楽教室を作った。そこで東儀祐二先生に習うように」とおっしゃったので、秋からそちらに通いました。「相愛学園 子供の音楽教室」は、齋藤先生、吉田秀和先生、井口基成先生、伊藤武雄先生たちが桐朋と同じように作られた教室で、そこでも毎週ソルフェージュの勉強や合奏をしました。齋藤先生も月に1度は教えにいらっしゃいましたね。夏合宿が高野山であった時にもいらして、5日間くらいお寺に泊まって指導してくださったこともありました。そして、桐朋女子高等学校に進学する時、先生は私に「この子たちとカルテットを組ませる」と決めていて、合格発表の日に、いま桐朋学園大学で教えている辰巳明子先生、今ドイツにいらっしゃる永富美和子さん、そして藤原真理ちゃんが現れたんです!「まち絵ちゃんは私たちと一緒にカルテットやることになっているからね」と言われました(笑)。先生には一から本当によく教えていただきました。始めの1年は、ハイドンの弦楽四重奏曲 作品77の1だけ。2年目はベートーヴェンの弦楽四重奏曲 作品18-1だけ。毎日授業の前、朝7時から8時半頃までリハーサルして。それはそれは面白かったです。

 

―齋藤秀雄先生は小栗さんにとってどういう存在でしたか?

偉大な存在、でも本当に優しく接していただきましたね。私たちが時々楽譜と違うようなことをしても、「なぜそうしたいの?」と聞いてくださって、「私たちはこう感じるのです」と言ったら「それも面白いかもしれない。やってごらん」と言われたこともあります。随分かわいがっていただいて、先生の軽井沢の別荘でレッスンしていただいたこともあります。先生の教育への情熱や生徒への愛情、先生から学んだすべてのことが、自分が教える時に役に立っていますね。

 

―先生の教えで一番記憶に残っているのは、どんなことですか?

まず、楽譜に忠実に音楽を考える、そして心で歌うということと、楽器を弾く際の具体的な身体の使い方でしょうか。学生時代、広島の音楽教室に4人くらいのチームで教えに行かされたこともあります。レッスンノートを書くんですが、先生が時々それを見て、「あなたこういうことを教えなきゃいけない。抜けているよ」と教えてくださったり。私のような次世代に、指導方法も受け継いでもらいたいと考えておられたのだと思います。補足

 

―桐朋女子高等学校音楽科卒業後、桐朋学園大学で学ばれたそうですね。

ええ、高校入学時からずっと、ヴァイオリンは江藤俊哉先生に。アメリカから帰られたばかりで若くて、レッスンで音を出してくださると、とろけるように豊かな音でね。いつも聞き惚れていました。はじめの2か月は、開放弦しか弾かせてもらえなかったですけどね。オケと室内楽は7年間齋藤先生に学びました。

 

―大学で、特に印象に残っているご経験についてお聞かせいただけますか?

大学4年生の時、桐朋の弦楽合奏団がヨーロッパに演奏旅行へ行く機会がありました。9月下旬から11月末にかけて13ヶ国をまわり、30数回の演奏会をしたんです。齋藤先生は、自分の教えたオケがヨーロッパでどう通じるか、見てみたかったのだと思います。すごい拍手が鳴りやまずで、私達はただただ感激して嬉しかったのを覚えています。あれ程大規模な演奏旅行、それも学生たちのなんて、金輪際おこりえないと思います。本当にラッキーな経験でした。

卒業後は2年間、桐朋で助手として教えさせていただいてからインディアナ大学に留学しました。その間にヴィエニャフスキ国際コンクールに参加して特別賞をいただいたり、その帰りにインディアナ大学で結婚式をあげたりしたんです。

 

―アメリカでは、ご主人の工藤千博さんとインターナショナル弦楽四重奏団を組まれたそうですね。

ええ。留学してアーティストディプロマが終わる頃、ジョゼフ・ギンゴールド先生が「おまえたち2人にカルテットをやってほしい。誰かもう2人と組んで、仕事で行かないか」とおっしゃって、それでアメリカ人のヴィオリストとドイツ人のチェリストと組んで始めたんです。最初にベートーヴェンの弦楽四重奏曲 作品95〈セリオーソ〉を弾いた時、冒頭のユニゾンが本当にきれいに合って、「わぁ、気持ちいい!」と思いましたね。私たちはインディアナ大学の一番大きなブルーミントン校にいたんですけど、サウスベンド校の音楽学部がレジデンス・カルテットがほしいと考えていたので、その仕事を務めました。1976年にはフランスのエヴィアン国際室内楽コンクールに優勝、翌年にはミュンヘン国際コンクール弦楽四重奏部門に入賞もでき、10年ほどアメリカをベースにカルテットを続けました。

 

―当時のインディアナ大学には、錚々たる演奏家の方々がいらっしゃったそうですね。

当時はギンゴールド先生、フランコ・グリ先生、チェロのヤノシュ・シュタルケル先生、そして11月のMCOにもいらっしゃるメナヘム・プレスラー先生がいらっしゃいました。プレスラー先生には、カルテット時代、可愛がっていただいたんですよ。演奏会で、ブラームスやドヴォルザークのピアノクインテットを一緒に弾いていただいたり。だから11月の定期演奏会が本当に楽しみです。当時、プレスラー先生がなさっている夏の室内楽セミナーがあって、ピアニストが参加しに来るんです。トリオとかクインテットの曲で講習を受けたくても、弦のメンバーを連れてこられない人が多く、そういう人と私たちが一緒に弾く機会があり、とても勉強させていただきました。ロバート・マン先生にレッスン受けたこともありました。モーツァルトをやって、最初の10小節が1時間かかるレッスンとかね。とにかく私にとっては、カルテットで演奏活動していたことが一番の音楽の財産です。

 

―帰国後は現在に至るまで、大阪の相愛大学で教えていらっしゃいますね。

ええ。私と夫がアメリカにいた時、かつて習っていた東儀祐二先生が亡くなられて、後任を探しているという話があったんです。私たちは1973年から86年までアメリカでカルテットをやっていたんですが、子どもも学齢になるし、それも一つのチャンスかなと思い、相愛に帰ることにしました。そのとき京都市交響楽団ではコンサートマスターを探していたので、夫の工藤はその職をいただきました。私は子供の頃、相愛の音楽教室で齋藤先生にお世話になりました。先生はいろんなところで若い人が育ってほしいと考えて、お忙しいのに大阪まで来てくださっていたんです。今は新幹線でぱっと行けるけど、昔はもっと遠かった。「親の住んでいるところで学ばなければいけない子供が多いから、こうして大阪に来ている」と先生はおっしゃっていました。私もご縁があって相愛に帰ってきたから、そこを軸に活動して若い人も育てられたらと思い、30年近くやってきました。

 

―小栗さんは多くの優秀なヴァイオリニストの方を育てていらっしゃいます。MCOにいらしたことのある方では、中島慎子さんや木嶋真優さん、神尾真由子さん、篠原朋子さん、長原幸太さんなどがいらっしゃるそうですが…

ちかちゃん(中島さん)は、彼女が高校生だった時に教えていました。元気なちかちゃん、素晴らしい才能です。神尾さんは小学3年生の頃から原田幸一郎さんのところに行く時まで、工藤が教えたんです。初めて聴いてレッスンしたとき工藤は「この子は小学校4年生で全国1位になれる!稀な才能だ」と言っていました。木嶋さんは小学2年生くらいからブロン先生のところに行くまでですね。篠原さんは、中学校から相愛高校卒業まで教えました。幸太くんは小学4年生の終わりくらいから広島から通ってきていて、私の娘と同じ年なのでうちに泊まったりもしました。小学校高学年から中学の頃って、スポンジのようにいろんなことを吸い上げるから、みんな本当に素晴らしい勢いで伸びていきます。驚きの連続ですね。そういう生徒さんに恵まれて本当に幸せです。

 

―教育にはどんな思いで取り組んでいらっしゃいますか?

一人一人と誠実に向き合うことを大切にしています。みんな違うから、その人が望むように精一杯成長のためのお手伝いをする。その道を一緒に歩むということです。レッスンの時間以外にも一緒にたくさんのことをやりたいと思っています。そうするとけっこうエネルギーがいるんですよね(笑)。でも今から成長しようとするエネルギーの塊みたいな生徒たちといられるのは、自分の生きるエネルギーにもなるし、とても有難いことです。

 

―小栗さんは、いずみシンフォニエッタ大阪でも活動していらっしゃいますね。

いずみシンフォニエッタ大阪は一管編成で、ピアノを含んだアンサンブルです。2000年にいずみホールのレジデンスオーケストラとして結成されて、関西にゆかりのある人たちが集まってやっています。現代音楽が主体なのでお客様の確保はたいへんです。新たな名曲誕生のお手伝いができる喜びもあれば、準備に時間がかかり過ぎて「ひゃぁ、大変!」と思う曲とかもあります。でも「日本の生きている作曲家の音楽や、世界の注目すべき現代作品を最高の演奏できいてほしい」という大きな熱意がホールの方たちにあるんです。だから私達メンバーも一生懸命やらせていただいています。

 

―MCOの将来についてお気づきのことがございましたら教えていただけませんか?

まずは小澤先生の音楽に接していられることがどれだけ宝物か、きちんと感じながら活動することが大切だと思います。指揮者なしで演奏する時も、本当にいいアンサンブルにするために一つ一つの音により厳しく向かっていくこと。これだけのメンバーですから、ぱっと弾いてもいいものにはなる。それをさらに最高のものにしようという気持ち。そして新しく入る方も音楽創りに積極的に参加する気概。潮田先生がいらっしゃった時、モーツァルトのディヴェルティメントを何度もみんなで弾きました。その時に一つ一つのフレーズを「こうしない?ああしない?」とおっしゃっていた姿勢、それが大切だと思います。みんな上手だからこそ見失ってはいけない大切なものを心の中に持っていると、きっと、ずっと素晴らしい音楽がここで響き続けると思います。

 

2015年5月

聞き手:高巣真樹

takasumaki
makit@arttowermito.or.jp